ちょっと釣りタイトルすぎただろうか。
もちろん僕は生まれてこの方、ずっとパンダである。ヒトである。
チンパンジーというのは写真の撮影様式の話だ。
“chimping”
アメリカの写真界隈には「chimping(チンパンジーする)」という言葉がある。チンパンジー(chimpanzee)の短縮表記である chimp に -ing をつけて動名詞っぽくしたものだ。
chimping とは、カメラ初心者が写真を撮るたびに背面モニターで仕上がりを確認することを指している。
どうしてチンパンジーかというと、モニターで写真を見て “Ooo!! Ooo!! Ooo!!” と声を出している姿がまるでチンパンジーの声真似をしているように見えるかららしい。
そう。これは初心者に対する悪口である。
なぜ写真を撮った後に背面モニターを見るのはいけないのだろうか。
ストリート写真や野鳥・動物写真の場合には、写真を確認している間に決定的瞬間を逃してしまうリスクがある。
ポートレートの場合には、撮影者が写真を確認している間、モデルに不快な思いをさせてしまう。
こうしたことから、写真を撮った後にモニターを確認しない方がいいという考え方が生まれている。
例えば、写真家の幡野広志さんは「撮影した写真の自動表示機能をオフにしよう」と提案されている(『うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真』)。非常に理にかなったアドバイスだと思う。
僕も昔はチンパンジーだった
かく言う僕も、昔は chimping していた。
あれは 2005年ごろだったと思う。当時、祖父がフィルムからデジタルに移行を進めていた。祖父のお下がりのフィルムカメラを使っていた僕のところにも、ようやくデジタルカメラがやってきた。
いまから思えば、きわめて映りの悪い液晶画面だった。でも、撮った写真をその場で現像代がかからずに見られることにとても感動した。魔法のように思えた。
もちろん背面モニターを見ている間に決定的瞬間を逃してしまうリスクに、当時の僕は薄々気づいていたと思う。
でも、そんなことはどうでもよかった。
その頃の僕にとって、撮ったばかりの写真が見られること、そのこと自体が決定的瞬間だった。
その魔法を自分の眼というカメラで捉えたい。その想いが僕をチンパンジーにした。
今はヒトになったけれど…
しかし、そうした時期は長くは続かなかった。
デジタルカメラを使い慣れるにつれて、その場で写真を見られることに対する感動は薄れていった。魔法だと思っていたことは、単なる日常の出来事に過ぎなかった。
街中で起きる決定的瞬間を逃したくないという想いの方が相対的に大きくなっていった。僕の眼は自然と背面モニターから離れていった。
僕はヒトになった。
今では、撮影した写真をその場で見ることはほぼなくなった。撮影した写真を確認するのは、家を出る時にカメラの動作確認するときと、出先でカメラの挙動がおかしいと感じたとき、それくらいである。恐ろしいほどにヒト的な撮影様式だ。チンパンジーの面影は一切ない。
しかし、チンパンジーだった頃の方が素直でいい写真を撮れていたように思える。
たしかに、撮影技術的には未熟だったろうし、chimping とバカにされることをしていたかもしれない。でも、心が動かされたものを撮影し、その写真がその場で見られることにまた心を動かされていた。失敗した写真に対してですら、失敗の事実をその場で確認できることに感動を覚えていた。
撮った全ての写真が感情を動かす力を持っていた。こういう写真を「いい写真」と言わずして、何がいい写真なのだろう。
はたして僕はヒトになれて良かったのだろうか。
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